もやもやの正体

最近、ちょくちょくもやもやとしたものを感じることがある。
詳細は書かないけれど、もやもやした感覚を覚えることがある(どっちかといえばプライベートで)。
つい先日もそういうもやもやを感じたので、適当に書き残しておこうかなと思った。

思考を鈍らせるもの

ぼくらが「何か」をしようとしたとき、その「何か」を実現するまでには大なり小なり何らかのパワーが必要で、
それは例えば、肉体を駆動するための美味しいごはんだったり、健康を維持するための体力であったり、
「何か」に向かう渇望であったり、もっと単純な見栄や意地やプライドだったりするかもしれない。
そういう「パワーの源」を誰しも自分の内外に持っているはずだ。
この「パワーの源」自体には良いも悪いも無くて、それが人間を動かすエネルギーを供給してくれさえすれば良い。
だけれども、時々僕らはこの「パワーの源」によって生み出された結果に、「善悪」とか「妥当性」とか「合理性」とかそういうものを重ねて見てしまうことがある。
これも、そう「見てしまう」こと自体には良いも悪いもないのだけれど、ただ、「パワーの源」が何であるのかを観るための目を濁らせてしまうことがある。
濁った目で見た世界は、ぼくらの思考を鈍らせてゆく。
そうやってどんどん鈍った思考の中で、もやもやを募らせるのはつまらない。

ねがてぃぶなこころ

鈍った思考の中で、受け取った言葉を咀嚼していると、苦かったり酸っぱかったり、オエッマズッ!ってなることがある。
そう感じてしまう自分にも問題は当然あるのだけれど、なるべくならオエッマズッ!とはなりたくない。
どうすれば良いのだろうか、最近までもやもやしたものを感じていた。
このもやもやが、最近になってどうもネガティブな部分に反応してオエッマズッ!となる傾向があるらしいということに気がついた。
あぁこれは同類嫌悪なのかもしれない。
逃避のための理由を探して、だらだらと何もしないでいる自分を見ているような、そんな嫌悪感を感じるのかな。
本当のところは判らないけれど、きっとそういうことなんだと思う。
原因はなんとなく判った。よし、じゃぁどうしようか?
ネガティブな発言を封殺すれば良い?そんなことできっこないよ。そうだよね。
じゃぁ、我慢する?うん、今はそうしようか。もうちょっと年をとるまで、待とう。


今だって十分におっさんだけど、
今よりもっと良いおっさんになりたい。